2015年12月28日月曜日

のんちゃんの あの人はいま ⑬ ~島田(田賀屋)夙生さん~



「田賀屋狂言会」を立ち上げた

島田(田賀屋)夙生さん(69才)
二〇〇五年(平成17年)退職

2015.10.28 自宅訪問(野田雄一郎)






10月28日、別府啓介さん(平成19年退職)と笠岡市西大島の島田さんのお宅を訪問しました。

10年ほど前、「グループホームみたけ」を開設したと聞きおじゃまして以来です。

今回訪問すると、隣に小規模多機能型居宅介護事業所「あんしん多機能ホーム」が増設されて

いました。両ホームとも、長男ご夫婦で運営されているそうです。


[野田]          
今日は、スペインに一緒に行かれた別府さんに同行してもらいました。

島田さんは、県庁に入ってから狂言を始められたそうですが、そのきっかけを教えて下さい。


[島田]          
狂言をやろうという気持ちは全くありませんでした。私は25歳の時に県庁に入りました。

29歳、住宅課にいた時に、黒住隆さんに誘われて謡を習いました。

発表会に出ている時、ある人から、あんたは狂言に向いていると言われ、岡山に出稽古に

来られていた12世茂山千五郎(人間国宝四世千作)さんに入門しました。34歳の時です。

狂言は私からやろうと思って始めたわけではないのですが、誘われて出会った先生が偉大な人でした。

狂言「棒しばり」

[野田]          
ところで「田賀屋」を名乗られておられますが、その経緯を教えて下さい。


[島田]          
平成元年に43歳で師匠の勧めでプロになりました。

プロ登録をして(公社)能楽協会に入会しました。そうするとギャラをもらうようになりました。

そこで、我が家に代々伝わる屋号をステージ名として名乗ることにしました。

本家が造酒屋で、分家がそれぞれ屋号を名乗っていました。

1810年ごろの分家で、もともと田賀屋という屋号で、私が6代目です。

平成2年に師範披露狂言会を県立美術館ホールでやりました。

それ以降は、田賀屋狂言会として発表会をしてきました。


[別府]           
お弟子さんもおられると聞いていますが。


[島田]          
最初に岡山に教室を開きましたが、高齢者の人ばかりでした。

平成7年頃から若い弟子ができました。

岡山市北公民館で、平均20人(延べ100人)ほどを教えてきました。

今は倉敷と玉野にも教室を持っています。現在、弟子は30人ほどです。


[野田]          
次男さんが狂言をされていると聞きましたが。


[島田]          
島田洋海(ひろみ)です。13世千五郎の内弟子となり、先年修行を終えました。

私とともに茂山千五郎一門の一員として活動しています。


[別府]           
いろんなところに行かれており大変お忙しいと思いますが、特にトレーニングはされてるんですか。


[島田]          
私は稽古が嫌いです。お弟子さんに教える。学校で教える。

自分でしてみせて、習わせる。これが私の稽古です。稽古のための稽古はしません。

小・中学校に教えに行っていますが、大きな口を開けて声を出すように指導しますと、

1時間もすると大きな声が出るようになります。

今年は、真庭市の6校と、笠岡市の4校、さらに岡山県文化連盟の依頼で毎年10校ほど出前講座に

行っています。文化庁の事業にも2校行きました。

神鳴(かみなり)


[野田]          
毎日忙しくされていますね。


[島田]          
予定の入っていない週はありません。

先日は鳥取公演に行ってきました。9月には京都公演にも行きました。


[野田]          
私たち後輩に対して何か伝えたいことはありませんか。


[島田]          
特にありません。思うままにやられたらいいと思います。


[野田]          
何かモットーはお持ちですか。


[島田]          
モットーの無いのがモットーです。

人間は目標を持たないと、人を引っ張っていけません。

狂言は、自分の会を作って、自分でやることができます。

自分が主役をすることができる、狂言の良いところです。装束や面もほとんど買い揃えています。


[別府]           
ところで狂言はいつまで続けられるんですか。


[島田]          
狂言は、私のライフ・ワークです。声が出る限り、身体が動く限り続けていこうと思っています。



※島田さんは海外公演を6回開催されています。
  4月23日の退職者会総会後に海外公演のエピソードをお話ししていただくことになりました。

  
アイルランド公演チラシ
ブラジル公演チラシ

ジャパンフェスティバル


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2016年公演情報

1月2日(土)11:30~12:30 新春祝賀狂言(後楽園能舞台)
                                        福の神(田賀屋) ワンコイン奉納(要入園料)
                                   後楽園で採れたもち米で作った紅白餅が振る舞われます

1月28日(木)18:30~      新春狂言福来たる(岡山市民会館)
                                    靭猿ほか、野村萬斎、茂山千五郎 5,600円

3月2日(水)10:30~12:00 後楽園開園記念狂言(後楽園能舞台)
                                         新作狂言「シーボルト(仮称)」「千鳥」「盆山」「腰祈」 
                                         入場無料来観歓迎

3月26日(土)13:30~15:00  はやしま狂言会(早島町ゆるびの舎)
                                        狂言ワークショップ+狂言「蚊相撲」「棒しばり」

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狂言師 田賀屋夙生の履歴()


岡山県笠岡市出身  1946年生まれ
1971年 横浜国立大学経済学部卒業
現在、社団法人能楽協会会員、能楽大蔵流狂言方師範

【芸歴(修行歴)】
1980年 大蔵流狂言・四世茂山千作師(人間国宝)に師事
1989年 (公社)能楽協会会員、大蔵流狂言師範となる 田賀屋狂言会を主宰
1990年 師範披露狂言会で 重習「三番三(さんばそう)」を披(ひら)く
1996年 秘曲「釣狐(つりぎつね)」を披く
1996年から毎年1回自主公演「稀曲大曲を観る会」を開催
2006年 秘曲「花子(はなご)」を披く

【海外公演】
2002年 アイルランド(ダブリン、ゴールウエイ)公演(国際交流基金助成事業)
2007年 3月オーストラリア・タスマニア公演、6月スペイン3都市公演(  同上  )
2012年 7月ブラジル サンパウロ公演(国際交流基金主催事業)

【講師歴等】
93年から05年まで岡山県芸術祭賞(現・岡山芸術文化賞)の選考委員を勤める
2001年 岡山大学文学部(演劇学特講)の非常勤講師を勤める

【受賞歴】
2002年 福武文化奨励賞受賞
2008年 岡山芸術文化賞<功労賞>受賞
2011年 笠岡市文化の日記念表彰(旧笠岡市文化賞)受賞

2015年12月17日木曜日

安倍晴明伝説を巡り歩く旅

岡山県浅口市には安倍晴明伝説があります。

退職者会の史跡巡りの企画をするため事務局長の野田と

岡谷県本部の西江さんと2人で2015年12月16日に現地を見に

行きました。

どうしても行きたい場所は、鴨方町阿部山にあるという

「安倍晴明屋敷跡と安倍晴明顕彰碑」

金光町占見にあるという「安倍晴明の墓」

晴明のライバル「芦屋道満の墓」

「道満池の坊主岩」「鬼の手形岩」です。

最初に、「かもがた町家公園」に行きました。山陽道鴨方インターから5分ほどのところにあります。

この公園は、日本の歴史公園100選の一つです。
公園の中核となる町家「伝承館(旧高戸家住宅)」は、1687年に修理をした岡山県下で最も古い貴重な民家で、「岡山県重要文化財」に指定されています。駐車場・トイレ・土産物屋が整備されています。ビデオコーナーがあり、鴨方の歴史が学べます。

公園を出て、遥照山の方に行くと、天文台に行く途中の左側に林道の表示があります。
この林道は最近整備されたもののようで、道幅も広くきれいでした。
林道を渡り終えると、遙照山から阿部山の出ました。狭い道を5分ほど車を走らせると
安倍晴明の碑という古い木の看板が右手にあります。車は3台ほど置けます。
狭い山道を200メートルほど登って行くと「安倍晴明の碑」「安倍晴明屋敷跡」の表示がありました。

そこには、「安倍晴明が天体観測をしたあと」「安倍晴明の屋敷跡」がありきれいに掃除がしてありました。少し離れたところに「安倍晴明の碑」がありました。確かに安倍晴明がここに住んでいたんだなと実感しました。
阿部山の名前は、晴明の「あべ」に由来するといわれています。

阿部山を杉谷池の方から下って行き、山陽道に並走している裏道を通り、金光町の円山公園
に行きました。安倍晴明の墓がこの近くにあるとの情報と駐車場・トイレが整備されています。
円山公園は、広い敷地内に大きい池と桜、子供の遊び場、散策をする人で桜の時期は賑わうそううです。歩いている人に晴明の墓の場所を教えてもらいました。ここから金光駅に近い所です。

円山公園から金光駅の方に車を5分ほど走らせると、中高一貫教育の金光学園があります。
金光学園の正面をさらに北に向かい狭い路地をぬけると池にでます。
この池の土手に20台ほど車を置ける所があります。ここは遥照山登山口になっています。
ここに車を置いて遥照山に登るのです。また、金光学園の生徒は、ここから走って遥照山の
学園のグラウンドまで行くそうです。金光学園の野球部は毎年、甲子園の手前までいっています。

ここから先は道に迷い大変でした。池の辺りを遥照山の方に歩いて行くと、旧登山道の表示がありました。狭い道です。行けども行けども狭い山道で、何もありませんでした。途中でこれはおかしいと思い、元の登山口まで戻ると、用水に沿って新しい登山道がありました。その先に、鬼の手形岩の表示を見つけました。

少し歩くと左側の山の上に「鬼の手形岩」がありました。さらに先に行きましたが、安倍晴明の墓の表示がありません。これは違うとまた元の登山道に引き返しました。

通りすがりの人に聞きながら、何度も道に迷いながら、山の中の別の池に出ました。
その池は道満池だそうです。「道満池の坊主岩」の看板を見た時は感動しました。

池の先は行き止まりでした。また、登山道の入口まで帰りました。

また、通りすがりの人に聞きながら、旧登山道から少し左の方に町の方向、駅の方向に
行ったところに「芦屋道満」の墓を見つけました。そこから100メートルほど離れたところの
民家のすぐとなりについに「安倍晴明の墓」を見つけました。

当初行きたかったところはすべて行けました。「わからない時は地元の人に聞け」
これが今回の教訓です。迷ったら元に戻れは大原則でしょう。

安倍晴明の屋敷跡

屋敷跡のまわりの景色

阿部山の頂上にあった看板

安倍晴明が天体観測をした跡

安倍晴明顕彰碑




やっと看板を見つけた



鬼の手形岩

道満池の坊主岩


芦屋道満の墓


安倍晴明の墓





2015年12月10日木曜日

倉敷まち歩きをしました・・・昭和初期のマップで

いざまち歩きへ
岡山県職員退職者会では、倉敷支部の総会

と兼ねて、昭和初期のマップを使い倉敷

まち歩きを開催しました。

2005年12月5日(土)倉敷駅前観光案内所

に集合し、20名でまち歩きに出発しました。

地元の山川元昭さんの案内で、最初に川西

交番跡に行きました。

明治4年から昭和33年まで交番があった跡です。


川西交番跡
遊郭があった場所です。昭和17年には17軒

あったそうです。

川西交番の次は、高梁川導水堰に行きました。











高梁川導水堰は新川の起点です。

新川の起点

昭和53年、倉敷用水から美観地区へ

清水を導入しています。













次に向かったのは、大橋家(重文)です。
大橋家前

1799年建造。大橋家は、大阪から中島へ

帰農後、倉敷で金融業、塩田開発で蓄財、

明治以降も大橋銀行などを経営、困窮者

などへの援助をした。

1昨年の倉敷支部の総会は、この建物の、

紳助で開催しました。





フラワーポット前


次に向かったのは、阿知フラワーポットです。

美観地区の入口の道を挟んだ反対側にあり

普段は見逃すスポットです。

平成2年倉敷市背景保全条例が制定され、

建設予定のホテル用地を購入(2億円)。

ヒマラヤザクラが咲いていました。





倉敷物語館

美観地区に入り、倉敷物語館(東大橋家跡)

に入りました。(無料)

2009年倉敷市が情報発信施設として再生。

大橋家と同様に財を成し、「古禄」勢力を追放

し、大原家などと「新禄」と呼ばれる。

2001年ホテル建設が持ち上がり、倉敷市が重要地点として購入(1239㎡、6億円)






林源十郎商店


倉敷博物館を出て、格子戸を抜けた所。

ここからは、倉敷生活デザインマーケット

「林 源十郎商店」です。             木造3階(1934年建)

林氏は江戸時代からの薬種商、空店舗になっていたが、2009年国の戦略補助金を活用し再生。年間30万人が入場。記念室あり。




屋上からの眺め

2階の記念室


林源十郎商店記念室では、その設立に携わった、土岐隆信さんから詳しい説明を聴きました。


林孚一・林源十郎の2人の先人を世の中に
知ってもらいたいとの思いで記念室を開設
したそうです。

8代当主の林孚一は、幕末から明治初めに
かけ、一介の薬種屋でありながら、勤王
思想を持ち、勤王の志士を助け、長州藩や
水戸藩の人を自宅にかくまい、また、困っている人々の為に「続義倉」を立ち上げ、倉敷県の設立に力を注いだ人です。


11代当主の林源十郎は、新島襄を尊敬し
キリスト教徒となり、石井十次を応援し、
大原孫三郎を石井十次に紹介し、陰で孫三郎を全面的に支援した人です。

記念室の主な展示物としては、江戸末期の大きな藥箪笥、ここを訪ねてきた緒方洪庵や岸田吟香からの手紙、林製薬株式会社製造の医薬品やペリー来航時の風説書やあ似顔絵などがあります。

また3階から屋上に出ると、大原美術館を含めて美観地区が見渡せます。
夏はビアガーデンをしています。



林源十郎商店を出て、少し歩くと
中国銀行倉敷本町出張所(国登録文化財)
ルネッサンス風があります。

大正11年第一銀行倉敷支店として薬師寺
主計(総社)の設計で建設。
平成27年3月で廃止し、大原美術館へ寄贈、
ステンドグラスが特徴








昼食会場の「白壁」に向かうため
狭い路地を抜けて駅の方に向かいました。



坂道の途中で記念撮影。






 お昼は、倉敷駅前のステーションホテルの地下にある「白壁」でランチをいただきました、

倉敷支部総会を兼ねての昼食会です。

内田支部長、山川事務局長から、事業報告、事業計画などの報告がありました。







昼食後は、また美観地区の方に戻り
美観地区を通りすぎて南に行ったところの
倉敷天文台(市重分)に行きました。

歩いていると、100円ソフトクリームの店がありました。珍しさもあり、食べながら歩きました。

倉敷天文台は、原澄宇冶(クラボウ専務)が
出資した民間天文台第1号。
本田実氏が彗星12個を発見した(当時世界新)、記念館もあり






天文台を出ると、また美観地区の方の戻ります。

美観地区の中にある「桃太郎のからくり博物館」に行きました。


博物館では、館長自ら、ちくわをかじりながら

ちくわ笛の演奏をしてくれました。

館長は、民謡もすごく上手で下津井節などを

聞かせていただきました。



ミニお化け屋敷もあります。


出口で、館長を囲んで記念撮影をしました。


桃太郎からくり博物館で一旦解散しましたが、ほとんどの方がそのまま
定例の倉敷サロンに行きました。
ワイワイガヤガヤし、夕方、本当に解散となりました。
倉敷サロンは、毎月第一土曜日の午後2時から6時まで開催しています。
岡山県職員退職者会の会員であれば、だれでも参加できます。
会場は、美観地区入口の鴎州ハイスクールの7階です。
倉敷に来られた時は、気軽にお寄り下さい。



2015年11月26日木曜日

「終活」のすすめ⑫ ~Let’s 孫活(まごかつ)!~


「終活」のすすめ⑫ 

~Let’s 孫活(まごかつ)!~


終活カウンセラー 川上 恵美子




『幼老複合施設』が注目されている事を皆様はご存知でしょうか。

これは子供達と高齢者が触れ合う事が出来る施設で、例えば「保育園+老人ホーム」

「学童保育+老人ホーム」などの形式で運営される施設の事です。



高齢者の方にとっては、子供達の元気な声や表情を見ることで、自然と笑顔が増え、

感情機能や運動機能も回復したとの結果も出ています。



また子供達にとっては核家族化が進み、自分達のおじいちゃんやおばあちゃんと接する機会が

少ない中、毎日の生活で優しい眼差しを感じ、 色々な事を学ぶ事もでき、経験はもちろん、

子供たちの心身の発達にも良い影響がでると考えられています。




昔は一緒に生活する事が当たり前だったと、皆様は改めて感じているのではないでしょうか。

私自身は日常生活の事は両親から、そしてご先祖様の事や歴史の事、

伝統や行事については同居していた曾祖母から教わりました。

共働きの両親でしたが、いつも学校から帰ると「おかえり」と笑顔で待っていてくれて、

私は曾祖母が大好きでした。


そして一歩外へ出ても、近所の人が声をかけてくれ、何かあるといつでも手助けしてくれました。

その感謝の思いがあるので、高齢者の方々が出来ない事は自然とお手伝いしようという

気持ちになります。


三世代が同居する過程も少なくなってきた今、ご高齢者と子供たちが触れ合い、

にぎやかな笑い声と穏やかな語らいが響きあう場所が増え、人や伝統を「譲り」「育む」場所を

作ることが必要です。



血縁関係が無くても、子供達がお隣のおじいちゃんやおばちゃんの事を考えることができる様に

育つサポートするには「孫活」が大切です。

「Let’s孫活」で自分とこれからの未来の子供達の為にも明るい豊かな暮らしを作りましょう。



次回は『岡山のお葬式事情』をお伝えします。

2015年11月18日水曜日

「東海名城巡りと長良川温泉1泊2日の旅」

バス2台
岡山県職員退職者会の恒例の秋の1泊旅行は11月15日(日)から16日(月)にかけて

行きました。「東海名城巡りと長良川温泉1泊2日の旅」です。

当初、40人を募集し、大型バス1台で行く予定でした。

蓋をあけると、参加申込みが続き、すぐに50人を超えてしまいました。

最終的に、1号車(大型バス)34名、2号車(中型バス)21名という

いざ大垣城へ
バス2台、参加者55名という大所帯での旅行になりました。

参加者の年齢も、上は86歳、下は61歳で、平均をとったところ71歳でした。

高齢者の集団ですので、途中足腰が痛くなったり、バスまでの帰り道がわからなくなった人

も出ましたが、ガイドさん、運転手さんの努力により無事に岡山に帰ってきました。

行きは、昼食をハイウェイレストラン彦根で「すき焼き鍋」を食べ、大垣城に行きました。

関ヶ原の合戦の時に、石田三成が拠点とした城です。

岐阜城を真下から望む
水と城の大垣を後にし、「信長の野望燃え立つ、金華山」岐阜城に向かいました。

金華山のふもとからロープウェーで、リス村に到着し、そこから天下第一の門を通り

二の丸門をくぐり、黙々と歩いて行くと、天守閣です。

岐阜城は、標高329メートルの金華山の頂上にあります。

織田信長が、ここから天下を見晴らしたように壮大な眺望を楽しみました。

さて、リス村まで下りて、ロープウェーに乗ろうとしたら、レスキュー隊が担架を持って

二組も血相を変えて降りてきました。どうやら上で怪我人が出た様子です。

国宝の犬山城(桜が咲きかけてた)
ロープウェーまでは一緒に行きましたが、後は各自バラバラにバスの出発時間までに

バスに帰るようにしていましたので、われわれの団体の誰かかもしれないと、ガイドさんが

探しにいきました。他の家族連れの人が、ケガをしたということがわかりほっとしました。

15日の宿は金華山の麓の「ホテルパーク」です。早めに着いたので、ホテルの前の長良川

に浮かぶ鵜飼船を見ながら川原町を散策しました。ちょうど15日まで、岐阜城の天守閣が
名古屋城にて集合1

点灯しており、金華山の頂上に浮かぶ天守閣が青白く光っており、幻想的でした。

翌、16日はいよいよ国宝「犬山城」(別名:白帝城)です。

有名な「小牧・長久手の合戦」のおり、羽柴秀吉がこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川

家康と戦いました。床とか柱とか石垣に歴史を感じました。小さなお城で、階段も急勾配で疲れるお城ですが

国宝といわれるのが何となくわかりました。

名古屋城にて集合2
次に向かったのは、名古屋城です。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、加藤清正・福島正則ら西国20家に普請を命じて作らせた城です。金のシャチホコのレプリカの前で

記念撮影をしました。入口近くでは菊花展をやっていました。

ここでは、東山ガーデン「城」で「きしめん御膳」をいただきました。

後は、帰れ帰れで午後6時半ごろには岡山に帰ってきました。


シャチホコレプリカ前で

ホテル前にて1
ホテル前にて2


犬山城
犬山城を守ってきた大杉

犬山城にあった石高調べ
江戸時代のものです





































































川原町の夜景