2014年4月21日月曜日

倉敷メーデーin鷲羽山ハイランドに行ってきました。

メーデー鷲羽山
4月20日(日)倉敷地区メーデーは鷲羽山ハイランドで午前10時から開催されました。
私も高退連西部地域幹事の一員として参加しました。小雨が時々降る中で式典が行われ
サンバカーニバル、ビンゴゲーム等があり、熱気にあふれていました。
 家族で行くと乗り物は乗り放題で、1日遊べますぞ。
 
 岡山高退連史跡めぐり(玉島港地区散策)が
5月18日(日)10時から行われます。岡山県職員退職者の会員の方で希望される方は、事務局;野田まで申し込んで下さい。

 私事ですが、4月13日にたけべの森公園に行きました。桜が満開でした。メーデー当日の朝、我が家の庭のハナミズキが満開でしたのでパチリ。
高退連の参加者

4月13日たけべの森の桜、満開でした
我が家の庭のハナミズキ、満開です

2014年4月4日金曜日

近況報告;野田

 桜の花があまりにきれいなので、4月3日の夕方、旭川沿いの相生橋あたりで焼き肉をしました。
 あいにく雨が降り出したため、用意した食べ物と飲み物を大急ぎで片付けて早々に帰りました。

雨の中での花見

 ちなみに我が家の庭では、花桃(千代姫)が満開です。

満開の千代姫


   
 

2014年3月18日火曜日

第10回 四国88ヶ所霊場めぐりに行ってきました

第10回 四国88ヶ所霊場めぐりに行ってきました。
今回もバス2台に分かれて3月16日(日)~17日(月)、総勢40名で霊場めぐりに行ってきました。
今回は2日間で、第44番~第59番の16ヶ寺をまわりました。
中でも45番岩屋寺は山の頂上にあり、たいへんでした。
泊まりは道後温泉でした。
帰りは今治からしまなみ海道を通って帰りました。
今後の日程は、OBだより4月1日号で発表します。

岩屋寺は山の上
泰山寺と桜

道後グランドホテル前で集合


のんちゃんの あの人はいま ⑦ ~ 髙津 弘一さん ~ 



あっ晴れ!おかやま地域文化賞を受賞した

髙津 弘一さん
1992年(平成4年)退職

2013.10.25 自宅訪問



墨彩画家、玉野市文化協会顧問。
玉野市中央公民館定期講座「墨彩画」講師。
また、総合美術団体「玄画会」顧問として瀬戸内文化圏の美術振興に寄与されています。
そんな髙津さんの自宅を訪問しました。


[野田]          
この度は、あっ晴れ!おかやま地域文化賞の受賞、おめでとうございます。
墨彩画を始められたきっかけは何だったんでしょう。

[髙津]          
岡山県労政事務所の勤務になった時、勤労者美術展が二回目だったと思いますが、
作品が集まらなくて、出展のお願いに回っていた時、水墨画の先生の勧めで始めました。
それが現在に至っています。

[野田]          
これまで続けてこられて特に印象に残っていることがあれば…

[髙津]          
勤労者展で労働大臣賞をもらった時の喜びは大きかった。
全国の勤労者展にも出展させてもらいました。
おととし五十回で勤労者展がなくなったのは残念です。

[野田]          
主に玉野市文化協会で講師をされているとのことですが、
そのあたりのお話をしていただけますか。

[髙津]          
退職の時に市の方から、公民館で教室をやってくれないか、との話があり、
公民館二ヶ所で教室をもつようになりました。
小学校六年生の子どもに、お茶、お花、お琴といっしょに水墨画を描いてもらっています。

[野田]          
1月に個展を開催されるそうですね。

[髙津]          
せっかく賞をいただいたので、お礼の意味を兼ねて、個展を開いて皆さんに見ていただくだけ
でなくて、記念に何か描いたものを差し上げようと思っています。

(髙津さんの個展は平成26年1月15日~19日の間、玉野市総合文化センターで開催されました。)

[野田]          
私達後輩に対して何か伝えたいことがあればお願いします。

[髙津]          
趣味や楽しみを早くから持ってほしい。
何でもいいから趣味をみつけてやってみることですね。
私が長く続いたのも、会の世話役をやったからです。
人の世話をするということが、自分のためになっています。
私は、碁も将棋もマージャンもします。
テレビの碁や将棋の番組を見ていても、かじっておけば楽しみが増えます。
何でもやっていくうちに何か自分に残ってくるということですね。

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訪問時に髙津さんから原稿をいただきましたので、掲載させていただきます。
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あっ晴れ!おかやま
           地域文化賞 受賞

玉野市 髙 津 弘 一






平成25年10月3日、あっ晴れ!おかやま地域文化賞をいただいた。
域の文化振興に努めたことでいただけたものだろう。

平成4年に退職した。三年後に玉野市文化協会長に就任した。
以後六期12年務めたが母と病身の妹の介護で会長職を務めることが難しくなって退任した。

県職員になったのは昭和25年5月、玉野労政事務所に。

最初の仕事が同24年度から始まった岡山県勤労者美術展の出品勧奨だった。
この展覧会は争議に混乱している労働者に、美術に触れ合う機会を作って、心にゆとりを持ってほしいとの意から始まったもの。

でも絵具などの材料がまだ出回っておらず作品の募集に苦労していた。

その時に出会った水墨画の先生
「お前も描いてみろ。そうすれば出品する人の気持ちが解るだろう」と。
これが水墨画を描くようになったきっかけだった。

在職のほとんどが地方暮らし、それだけ時間外は割に自由に過ごせた。
それで水墨画が続いたのだろう。

そのおかげで、趣味の水墨画で勤労展の審査員を三十四回展から修了した五十回展まで務めさせてもらった。

勤労展が稽古を始めた初心者達の絵や書が世間に認められるのか、
県展に出来るだろうかといった美術への登竜門として期待されてきた展覧会だけに、
終了したのは残念なことだった。

四十歳台に一番好きだったことが生涯の道連れになると言う。
できれば退職後の楽しみを少しでも早く見つけてほしいと思っている。
退職後の人生もたっぷりあるのだから。


「のんちゃんの あの人はいま」
シリーズ7 95号掲載

「のんちゃんの あの人はいま」
シリーズ7 95号掲載

のんちゃんの あの人はいま ⑥ ~ 柘野 健次さん ~ 


水川陶影記念館を開設した

柘野 健次 さん
2000年(平成12年)退職

2013.8.15 記念館訪問



「釉薬の可能性に挑み続けた水川の作品を通して吉備焼の魅力に触れてほしい」と
話す柘野さん。

[野田]          
築100年の古民家を改修した記念館
記念館を開設した経緯を教えてください。

[柘野]          
築百年の古い家が売りに出されていたのを購入し、
自分の手仕事で古民家として再生させました。
妻の父親が、笠岡で吉備焼作家として活躍。
その水川陶影さんの作品を四十年近く集めていたものを「記念館」として、皆さんに思い出してほしいと思い、展示することにしました。

[野田]          
主な作品を何点か挙げてください。

[柘野]          
「緑釉柳文鉢(りょくゆうりゅうもんばち)」というのがあるんですが、
これは金重陶陽賞を受賞した鉢で、記念館開設と同時に思いがけず手に入りました。
次に辰砂(しんしゃ)の茶碗ですが、
これは辰砂という赤い色を出すのが、陶影の最も得意とするものです。
また、小野竹喬のあかね色をモチーフにした「茜(あかね)志野茶碗」などがあります。
辰砂茶碗
志野茶碗
[野田]          
柘野さんの今の夢があれば教えてください。

[柘野]          
水川陶影の作品展だけでなく、ここで企画展をしたいと思っています。
今年の秋に、陶の旅人「小山冨士夫」交遊展を企画中です。
小山さんは、倉敷玉島生まれで、日本陶芸の父と言われています。
焼物、著書、手紙等を展示します。
本だけで百冊近くあります。焼物が二~三十あり、手紙も七~八通あります。
その後は、署名本展、痕跡本展、書状展、吉塚勤治展、文士の肖像展等を考えています。

[野田]          
私達後輩に対して何か伝えたいことがあればお願いします。

[柘野]          
若い人達は、何事にも好奇心を燃やしてほしい。
あらゆる物に興味を示して、関心を持ってほしい。
好奇心を失ったら、人生は良いことにならんと思います。
また、何かを得ようと思えば何かをがまんしないといけない。
好奇心を燃やして人生を生き抜いてほしいというのが、私の願いです。
私も好奇心だけを失わずにきたからここまでこれた。何ごとにも挑戦してほしい。
チャレンジャーであってほしい。
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水川陶影記念館             
〒711-0911 倉敷市児島小川6丁目6-65
瀬戸大橋線「児島駅」から         
 ⃝徒歩30分                  
 ⃝タクシー10分                
開館時間/10:00~16:00         
休 館 日/毎週月曜日・木曜日       
入 館 料/300円(中学生以下100円)    
駐 車 場/3台                 
問い合わせ/086-473-1428(自宅)    
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記念館訪問時に柘野さんから原稿をいただきましたので、掲載させていただきます。
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人生雑感

 柘 野 健 次  





平成十二年に退職したのだから、県庁を去ってから十三年になる。
七十歳をこえ、人生の終末が見通せるようになった今、
これまでの県庁マン人生を振り返ってみたい。

県庁マンとしては多分、落第生だったと思う。
落第生でなかったとしても、それに近い部類だったろう。
しかし、ものは考えようだ。
財政課だ、やれ企画課だ、地方課だといった花形職場でなかったが故に、それなりの苦労はあったが、土曜日が半ドンの時代、半日を好きな書店めぐり、美術画廊めぐりをすることができた。

かつて日本銀行に、吉野俊彦さんという人物がいた。
氏は東大法学部を出て日銀に入り、初めての赴任地が岡山だった。
吉野さんにとって、不本意な地だった。
しかし、ここからが吉野さんの真骨頂で、岡山で金融の実態を深く学び、岡山人と交流を重ねた。そして念願の日銀調査部に帰っていった。
氏の人生哲学は「複線的人生を生きる」ことであった。
サラリーマンたる者は、まず自分に与えられた仕事を天職と心得て、仕事を愛し、そこに生甲斐を見出すことである。

しかし、これだけでは寂しい。
余暇を見つけて第二のライフワークを発見すべきである、というのだ。
森鷗外に学んだ吉野さんの人生観は、私の心を打った。
私も乏しい能力ながら、仕事には精一杯の努力を傾けてきた。
結果はごらんの通りである。

だが、新刊書店をめぐり、古書店を漁り、身銭を切って書物を買い集め、読み進めたこと(?)、美術館やデパートの美術画廊で「美の世界」に浸ったことなどが、今の私の人生に影響を及ぼしていると考えている。

若い県庁マンの皆様は、新聞を読んでおられようか。
アベノミックスだと騒がれ、株価の動向に一喜一憂し、国民の暮らしは一向に良くならない。
働く能力も意思も持ちながら、満足する雇用の場が確保されない厳しい現実。
暗い夜が明ければ、必ず光射す朝がやってきて、仕事に勤しむことができた安心感は、何物にも代えがたい幸福な時代であった。

新聞報道によれば、東日本大震災後、岡山に移住する人が増えているという。
災害が少ない、気候が温暖、交通の利便性がよい、といった点が評価されたらしい。
岡山に与えられたこの優位性を生かして、岡山を元気な県にしてほしいと願う。

「のんちゃんの あの人はいま」
シリーズ6 94号掲載

「のんちゃんの あの人はいま」
シリーズ6 94号掲載



2014年3月17日月曜日

のんちゃんの あの人はいま ⑤ ~ 丸山 晋正さん ~ 




丸山 晋正 さん
1991年(平成3年)退職

2013.3.16自宅訪問




丸山さんは、平成三年に倉敷地方振興局を最後に退職されました。
福祉畑一筋の勤務でした。30年ほど前に私が井笠地方振興局福祉部でケースワーカーをしていた時、部長をしておられました。さらに20年ほど前、倉敷地方振興局福祉部でケースワーカーをしていた時には川崎医大病院に勤務しておられました。当時、私が担当していたケースの相談に親切、丁寧に対応していただいた思い出があります。
 
三月初旬、書記局に電話があり、「丸山です。高齢なんで自動車の契約を解約したい。」とのこと。
「のんちゃんの あの人は いま」の作成に行き詰まっていた私は、即座に訪問の約束をしてしまいました。当日は、奥様もお話を聞いていただきありがとうございました。 
また、当日、原稿をいただきましたので、そのままインタビュー記事の後ろに掲載させていただきます。

[野田]          
退職後、どうされていたか教えて下さい。

[丸山]          
平成三年に退職し、その後は川崎医大付属病院に勤務しました。
医療相談室でケースワーカーを八年勤めました。その後は何もしていない。

[野田]          
何か趣味はありますか。

[丸山]          
趣味は、旅行、山歩き、田舎を歩く、海外にも十六回行っている。

[野田]          
お体は、特にどこか悪いということはないのですか。

[丸山]          
別に悪いところはないが、血圧の薬を飲んでる。

[野田]          
今は、毎日どんな生活をされているんですか。

[丸山]          
イオンに買い物に行ったり、ウオーキングをしている。

[野田]          
今の夢とか旅行について教えて下さい。

[丸山]          
ハーレーダビットソン一600ccにまたがって、アメリカ大陸とか日本では富良野・美瑛あたりを回るのが夢です。海外旅行もあちこち行ったが、カナダの紅葉を見に行こうとしたら都合が悪くなり、それ以来行っていない。万里の長城に行きバンザイをして帰った。

一番は、スイスの山・マッターホルン、二番はスコットランドの田舎、三番めがニュージーランドの田舎かな。つまらんかったのは、ハワイ、アメリカはあんまり良うなかった。

国内は、尾瀬を歩いてやみつきになり、八甲田・東北の山・日本アルプス、最後は月山だったかな。今、東北は地震があったんで遠慮しているが、やっぱり日本は東北がええ。関西は経済、東北は哲学ありということで、東北がええ。

[野田]          
特に今やってみたいという事はあるんですか。

[丸山]          
山に登るんではなくて、山を歩いて、温泉に入って、テキを食べて、雪の中の露天風呂に入ったら最高です。

[野田]          
あと一つ、我々後輩に対して何か言いたいことがあればお願いします。

[丸山]          
もうちょっと、がまんせえじゃろうな。仕事をやめてから力いっぱい遊べばよろしいが。

前列中央が丸山さん

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訪問時に丸山さんから原稿をいただきましたので、掲載させていただきます。
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職場のB面をかえりみて

丸 山 晋 正   

私は昭和二十九年、笠岡地方事務所を皮切りに、本庁民生労働部、そして最後の倉敷地方振興局までの期間、出先事務所の三分の二、本庁の三分の一を合わせ福祉畑一筋の勤務でした。

何しろ、戦後やっと落ち着いた時代から、現在のような先進国に肩を並べる時代まで、障害者、高齢者のほか、社会的に弱い立場とされる人々のためにと仕事を重ねてきましたが、住民の立場、行政の立場、その間の調整でいろいろ苦労したものです。

エスカレーターや自動ドアーの設置、あるいは歩道ブロックの敷設等、駅のほか商店街に頭を下げてまわった血気盛んな時代もありましたが、当時、助成制度が確立されておらず関係者から色々苦言を頂いたものです。そのような中で諸々の福祉施策の推進、実態調査の実施、関係医療制度の発足等、少数のスタッフでねじり鉢巻で頑張りました。

従って現制度の下地は初期の我々が築いたという自負もちょっぴりあります。

今から思えば、本庁では、予算編成、議会対策など、民間企業ならずとも少々首をかしげるような非能率な作業過程もあったと思われます。
それと合わせ、国本省の権限、議員さんの圧力等、我々の微力さも骨身にしみたものでした。
 
今では、担当者一人がまたたく間に七人に増加するという、いわゆる「パーキンソンの法則」よろしく、担当係が課や室どころか部としてまで広がり、外部にもわかりにくい肩書きが増えているようですが、まあ、これも行政需要もあり時代の流れでしょう。

次に個人的なことですが、私は県庁マンとしての適性に少々欠けるところがあったのか、人事に関して、上司から「お前のような者は取り手がない」とか、「君は積極性が無い」(つまり、飲み会やゴルフコンペの段取りが出来なかったこと)と言われ、私なりに、勤め人として二級品コンプレックスを持っている上、なる程、そもそも最初から道を間違えたのかなと痛切に思ったりしたものです。

でも、第一線を無事終えた時、これであちこちお辞儀をしなくてもよいという気分と合わせ、郊外の桜の色合い、野山の緑がすばらしかったことは、今でも忘れ難いものです。

そこで話を進めますと、県庁退職後、平成三年から川崎医大病院業務部で居心地がよかったのか八年間もお世話になりました。

そもそも私は山歩きが好きで、自然に触れたいという名目のもと、病院の給与で国の内外を問わず「どさくさ旅行」を続けました。

おかげで少しは人間としての内面が広がったような気がします。

それにしても年金は有難く、おかげ様で平均的な生活を送らせて頂いております。

私は今、平均寿命を少し越え、同年齢の友人の半数が鬼籍に入り、少々さびしさも漂い始めてい
ますが、所詮仕方の無い成り行きと思っています。今後は、できるだけ、あらゆる面で他人に迷惑をかけず、静かにこの世を終えること。その過程で、気分の良い事ばかりであれば万々歳であり、そうでなければ運が悪かったと思えば良し。

人生の幸せは何か。私は、どこの村長さんがどう言おうとも、第一に健康、第二にお金が土台と思っております。名優チャップリンは、少しのお金は必要と言っています。

ちょっとニヒルな言い方で恐縮ですが、「なせば何事も成る」と言うのは大うそです。

夢とか希望は一種の錯覚であり、人生には「適度なあきらめ」を学ぶことも必要ではないでしょうか。
御免なさい。

「のんちゃんの あの人はいま」
シリーズ5 93号掲載






「のんちゃんの あの人はいま」
シリーズ5 93号掲載

のんちゃんの あの人はいま ③ ~ 谷本 基さん ~ 


バリ島に家を建てた

谷本 基さん(73才)
1998年(平成10年)退職
2012.10.16 面 談


[野田]          
バリ島にみんなの家を建てられたそうですが、その経緯を教えて下さい。

[谷本]          
バリ島のみんなの家
バリ島には、五十歳の時初めて行きました。
それから何度か行っている間に、台所が使える場所がほしいと思うようになりました。 
退職を契機にバリ島の空港から三十分のクロボカンにみんなの家を建て、現地の人に家の管理をしてもらうことにしました。一年に一回、一週間から十日程滞在します。
毎年、十人程の人と一緒に行き、家を拠点にして、他の島に遊びに行きます。
今年の七月に一つの区切りとして、みんなの家を手放しました。

[野田]          
バリ島での思い出を聞かせて下さい。

[谷本]          
バリ島の大学と岡大の先生がタイアップして、熱帯の乾燥地農業の試験・実験をしていました。
農園に、岡大の先生と行き、バリ島の大学の先生との付き合いをしました。バリ島の隣のロンボク島のマタラム大学の先生、また、スラエス島(セレベス島)のハサヌディン大学の先生のお世話にもなりました。トラジャー地方のコーヒー栽培にも連れていってもらいました。それらの大学から岡大医学部に留学生がきており、友人との交流がたくさんできました。

[野田]          
インドネシアからの留学生との交流は、当然あると思いますが。
ロンボク・マタラム大学
この後3日間バスを出してくれました

[谷本]          
留学生が来ると、誰かがすぐに生活の世話をします。
インドネシアはいろんな意味でバラバラの世界であるが、お互いに助けあっている。ごめんなさいと言えば、許す社会、責任を問うという社会ではない。 怒らない社会、いじめのない社会。また、人に感謝するのではなく、神に感謝する気持ちを持っている。したがって、人に対して怒る気持ちはないようです。ヒンズー教、クリスチャン関係なく、お互いに助け合っている。研究する程、奥が深い。

[野田]          
ところで学生証をお持ちでしたが。

[谷本]          
平成十年から今も放送大学で勉強しています。
主に歴史と人間に関係する分野の勉強をしており、今は、人類の歴史を勉強中です。

[野田]          
今、考えられていることは。

[谷本]          
インドネシアの看護師を連れてきて、看護師をしながら日本語を習ってインドネシアに帰る。日本語のわかる看護師が増える。日本人がインドネシアで老後を過ごす時に頼りになる。物価も安い。せっかく日本で勉強させたのだから、結果を利用しないと損である。日本での生活の何分のいくらかでインドネシアでは生活できる。
老後の暮らしをインドネシアで過ごす。日本語のわかる看護師がいれば安心です。




「のんちゃんの あの人はいま」
シリーズ3 92号掲載